プロローグ 白い世界
……ルキ……ハルキ……春樹」
快いまどろみの中、自分を求める声がする。
まるで、母親が我が子を愛しむようなその声。
自分はここだ、ここにいる。
そう求めるかのように、春樹が意識をそちらに向けると声はゆっくりと大きくなっていった。
自分の名前を呼ばれるごとに、意識だけでなく存在が引っ張られていく。
そして、自分を覆うまどろみの霧が晴れた時、春樹の目の前に広がっていたのはどこまでも続く真白なる世界であった。
春樹は辺りを見回すが、自分以外には誰もいない。何も見えない。
どこが始まりで、どこが終わりなのかわからない。物が1つもない、自分しかいないこの空間に春樹は戸惑いを隠せない。
見上げた先は空と思っていいのだろうか、そもそも自分は地面に立っているのだろうか。
ひょっとすると、足を踏み出した瞬間に自分は白い空間を延々と落下していくかもしれない。
そう考えると、春樹は手足を動かすことができなかった。
確かなのは、自分がこの白い世界に存在していること。それだけだった。

「ねえ、春樹。どうしたの?」

世界を切り裂くように自分の耳に入ってきたその声に、春樹はハッとした。
今まで何もなかった世界の、自分の目の前に一人の少女が立っている。
流れる水がそのまま形をなしたような、艶やかな青の長い髪。磨かれたばかりのサファイアのような深い青を宿す瞳。
その青とは対称に、体を纏う白いワンピースと細く長い手足が彼女の存在を強調していた。
少女に見蕩れていて、動かない春樹に、少女はもう一度声をかける。
「ねえってば、春樹。大丈夫?」
不思議そうに瞬きする少女を見て、春樹は思い出した。
自分がどうしてこの場所にいるのか、そしてこの少女が誰なのかを……。
自分を見つめる春樹の瞳の色が変わったことを見て、少女は続けた。
「よかった、気付いたんだね。じゃあ、用件を聞こうかな?」
嬉しそうに微笑む少女だが、春樹の顔は険しかった。
「……君の力を貸してほしい」
絞り出すように吐いた精一杯の言葉。
長い沈黙の後、少女はその小さな口をゆっくりと開いた。
「春樹、あなたが望むなら私は喜んで力を貸すわ。だけど、あなたに『覚悟』はあるの?」
覚悟。
その言葉を聴いて、春樹の手に力がこもる。
大切な家族、友達、仲間たちの笑顔。そして、誓ったあの日の約束。
噛み締めた唇からはかすかに血がにじんでいた。
「覚悟は……できている」
春樹の瞳の奥から、揺るがない決意を読み取った少女は少しだけ寂しそうな笑顔を見せた。
「そう、それがあなたの想いなのね」
少女がゆっくりと春樹に近寄る。
「目を閉じて」
春樹は言われるままに目を閉じた。
少女は、その白い手で春樹の頬を何度も撫でた。恋人と別れを惜しむように、その存在を確かめた後、
少女はその艶やかな唇を春樹の唇に重ねた。
「!!」
少女と春樹の体が青い光に包まれる。まるで、1つに溶け合おうとするように。
「進みなさい、春樹。あなたの想いのままに……。
 その純粋な想いが、たとえあなたの全てを滅ぼすことになっても、……私は最後まで見ててあげる」
再びまどろみへの中へと戻っていく春樹が最後に見たものは、涙を流しながら微笑む少女の姿だった。


小さな頃、こんな話を聞いたことがある。
幸せの青い画鋲……それを見つけられた人は、たくさんの幸せを手に入れることができる。
でも、実際には誰も見たことがなくて、
それは、存在しないおとぎ話の中のものだと思っていた。

いつものように朝ごはんを食べて、通いなれた道を通って学校に向かう。
友達と昨日見たテレビの話で盛り上がって、どうでもいいことで笑う。
大好きなあの子と話をしながら、彼女の言葉やしぐさの1つ1つにドキドキする。
帰り道にお決まりの喫茶店でお気に入りのメニューを注文する。
夕暮れの土手に寝転がって見上げた空の美しさに感動する。

気づかなければ、何も知らずに過ぎていく時間。
でも、でも……大切な人、大好きな人たちと一緒に過ごしていく
そんな何気ない季節(とき)が嬉しくて、大切で……
この胸いっぱいの幸せな季節がいつまでも続いていくんだ。
あの頃の自分は、そう思っていた。

訪れる幸せな出来事とは逆に崩壊していく日常。
変わっていく季節、変わっていく君との関係。
だけど、季節が何度も変わっても、この想いだけは決して変わることがない。

だから、俺は願う。
もう一度、君に会いたい。
そしてこの想いを伝えるんだ。

あの日、君が振り返った瞬間にこぼれ落ちた本当に幸せそうなあの笑顔を俺は忘れない。

君と過ごした季節の中に見つけた優しい永遠を、
涙の中で止まっているあの日の風景を、
大好きだった君のことを、俺は……忘れない。

進むんだ、君とまた巡り会える日が来ると信じて。
進むんだ、たとえ……全てを失うことになったとしても……。



「春樹くん!」
「春くん」

光の中、春樹を呼ぶ声が聞こえる。
かけがえのない人たち、守りたい日常。

「行こう、ブルーネイル」

胸に抱いた小さな幸せと共に、春樹は踏み出す。
その想いを貫くために……。