雨上がりの空に

 ……駄目だ、こんなところで負けるわけにはいかない。
知らないうちに意識を持って行こうとするソイツに、俺は必死で抵抗していた。

神出鬼没の死神。

俺たちの中で、ソイツはそう呼ばれていた。
決して己からは姿を見せることはなく、ひたすらターゲットが油断する時まで身を潜めている。
人が多い時には活動せず、一人でいる人間を好んで襲うのも特徴の1つだ。
予め、このことを理解して気をつけておけば危険は回避できるのだが、そうもいかないことがある。

大勢の人間がいても、群れから外れたターゲットがいると、ゆっくりとその大きな鎌を構え歩み寄ってくる。
たとえ途中でその存在に気づくことができたとしても、その時にはもう遅い。
死神の鎌は、もう喉元に突き当てられている。
朦朧とした意識の中、人は叫び声を上げることもできずにその命を刃に差し出すことしかできないのだ。
犠牲となった者たちの末路は悲惨の一言だ。
ある者は、自ら垂れ流した唾液の泉に溺れ、
またある者は、机という崖から頭から落下する。
またある者は、忌み嫌う指導者から辞書のかかとアタックを受け、悶絶する。
犠牲者によっては、己の母親の名前を呼んでしまったことでその後「マザコン」という二つ名を授けられてしまった者もいる。

時に、命以上に大切なモノを奪っていくこの死神だけには負けるわけにはいかない。
しかし、昨日夜更かしして勉強していたこともあって戦況は思わしくなかった。
死神の放つ魔法によって、ゆっくりと瞼が下がってくる。
「あ……あ……」
気がつけば、無意識に声を出していた自分がいた。
助けてくれ、俺はまだ死にたくない。
まだやりたいことがあるんだ。
購買で1年に数回しか現れない、いちごショートサンドを手に入れること。
銭湯に行って、湯上りにフルーツ牛乳を飲むこと。
60円アイスで2回連続で当たりを引くこと。
あれ? 俺のやりたいことってこんなことだったっけ……。
もはや何が正しいのかわからなくなりつつある中、額に硬く冷たいものを感じた。
「ぎゃああああっ! 助けて、助けてー!!」
死神の鎌がついに振り下ろされたと勘違いした俺は、大声で叫んでいた。
「おーい榎本くん、起きろー。こっちに帰ってきなさーい」
はっ、この声は……。俺を呼ぶ聞きなれた声。
俺の意識をこっちに引っ張ってくれたのは、クラスメートの荻原だった。
同時に、額に当てられているのが自分の好きなペットボトルのウーロン茶だと気付いた。
「ああ、萩原……お前は俺の救世主だ」
「まったく、図書館で眠っちゃって。それに、今の大声。人がいた時だと迷惑すぎるからやめてよね」
「あはは、もうちょっとで死ぬところだったからな」
気まずくて、荻原から目をそらす。なるほど、どうやらだいぶ眠っていたらしく図書室には俺と荻原以外誰も残っていなかった。
「と、いうわけで」
荻原が大げさな動作で手を差し出す。
「はーい、ウーロン茶のペットボトル150円になります♪」
「ですよねー」
くそう、その愛くるしいえくぼと笑顔が逆に怖い。
そんな可愛さを強調するのは、彼女のトレードマークでもある眼鏡だ。
赤い活動的な色と、シャープなデザインのから受ける知的なイメージが実にいいアクセントになっている。
そんな我がクラスメート荻原小枝子に、俺はポケットから取り出した150円を渋々と渡した。
「さらば、ジョニーにジャスティス。君たちのことは忘れない」
「大げさだなぁ、定価の利益なしでこっちは販売してあげているのに」
「おい、荻原。うちの高校の自販機、ペットボトルは全部130円だと思ったんだが」
「ちっ」
荻原が顔をしかめる。
「ははーん、文句言うならこの青汁サイダーのペットボトルと交換してあげてもいいんだよ?」
「萩原、あんた鬼や。人やない!」
そんなえげつない飲み物と交換されてたまるか!
俺は、ペットボトルの蓋を人差し指に力を入れて高速で回転させ弾き飛ばす。
そして、開いた口に急いで吸いつき、ウーロン茶を一気に喉に流し込んだ。
ああ、生き返る。
この苦味から味わえる幸福感、たまらな……!?
その瞬間、大量のウーロン茶によって気管が塞がれた。
思わず咳き込んでしまう。目から涙まで出てきたぞ、畜生。
「ぷっ、あはははっ!!」
荻原が腹を抱えて笑っている。
向こうも目から涙出てるよ。荻原よ、そんなに面白いかね……。
「もう、本当に榎本くんは面白いなぁ。さて、でもそれ飲んだら本当に早く帰ってね。」
「ん、何でだ?」
「理由1つ目、下校時間。2つ目、図書委員の仕事の邪魔。3つ目は、……レーダーが反応してる」
そう言われて、俺はおもむろに自分の前髪を触った。
なるほど、そういうことか。
俺のこのどこにでもいるような黒色の髪の毛。普段は直毛に近い髪質だが、水分に触れると丸まるというか縮れるという性質を持っている。
まあ、所謂天然パーマみたいなもんだ。
面白いように水に反応するもんで、雨の日は必ずと言っていいほどおかしな髪型になる。
故に、つけられた名前が『雨レーダー』
つけられた当初は嫌だったが、人間慣れるとどうでもよくなってしまうから恐ろしいものだ。
逆に、天気を予測できるお手伝いができてしまうので前よりも好きになったぐらいだ。
まあ、俺の本名と雨レーダー。どっちが有名かと言われると悲しいことになるんだが……。
大丈夫、そこは強く生きている。
「うーん、確かにこの縮れ具合だとあと1時間もしないうちに降るな」
「そういうこと。だから帰るべし! あ、でもこのまま図書委員の仕事を手伝ってくれるって言うんなら残っててくれてもいいんだよ?」
「おいおい、勘弁してくれ。」
ニヤニヤする荻原を横目にしながら、俺は勉強道具を片付け始める。
図書委員の仕事を手伝うのはいいんだが、問題はそっちじゃない。
荻原の読書の話だ。
前に手伝った時に、3時間ぐらい拘束された記憶がある。
しかも、これから読もうとしていた本のネタバレまでしてくれたから性質が悪い。
「ああ、薄情な榎本くん。図書委員の仕事が終わるまで君は待ってくれないのね。シクシク……」
荻原の泣き落としを見なかったことにして、最後のふで箱を鞄に放り込むと、俺は容赦なく席を立った。
「すまん、荻原。今日、雨が降る前に寄らなきゃいけないところがあってだな。俺は帰るぞ!!」
決して荻原から逃げるための言い訳ではなく、本当のことなのだ。
その場所は、雨が降ってから着いたのでは意味がない場所。
不覚にも、眠ってしまってこんな状況になってはしまったが、何としても早く学校を出なければならない。
そんな俺の心のうちを読み取ってくれたのか
「仕方ないな、いいよ」
荻原は快く承諾してくれた。
「ありがとう、今度手伝うからな」
「次回はネタバレオンパレードだからね」
荻原が悪戯な笑みを浮かべる。
明らかに冗談で言ってるのかどうかを早く見抜けるようになりたいもんだ。
「よーし、その時はこっちもネタバレいっぱい仕込んでおくからな」
「うん、楽しみにしてる」
今見せてくれている笑顔は、きっと素直な笑顔……だよな。
荻原に手を振ると、俺は図書室を後にした。


不安定なモノトーンの空がだんだんと濃くなっていく。
低く流れる雲は、どこに流れつくのかを知られることなくそのキャンバスに溶けていく。
校門を出て、まだ数分も経っていないのだが状況は悪い方向へ向かっていた。
「まずいな、早くしないと」
必死に走っているつもりだが、景色は早く後ろに流れて行かない。
いつもより重く感じるスニーカーには、湿気の妖精たちがとり憑いているに違いないなかった。

だけど、ここで屈するわけにはいかない。
歯を食いしばり、膝を深く沈め、踏み込む。そして膝を戻す反動で一気に前に出る。
風を切る音と一緒に、さらに加速していく。
緑の土手を走り抜け、入り組んだ住宅街の道を慣れたように進み、少しばかり坂になった道を登っていく。
そう、この坂道を登った場所に俺が用事がある場所があるのだ。

天の橋(あまのはし)公園。

学校から程なく離れた裏山にある公園はそう呼ばれていた。
なんでも、山にある公園なので天……つまりは空と近い。天と地の架け橋となる公園であれ。
というのが、公園に設置されている記念碑に書かれている。
まあ、そこまで大げさな名前でなくてもいいんじゃないかと思うくらいの公園なんだけど、
利用する人はけっこう多く、部活の練習で走る学生や、健康目的のジャージを着たおばちゃんや、元気に遊ぶ子供たち、デートする恋人たちという
公園になくてはならない存在も確認できる。
広さもそれなりのもので、やろうと思えば公園をぐるっと回るクォーターマラソン大会ぐらいできてしまいそうなものだ。

しかし、雨が降りそうということもあって人の姿は少なかった。見かけても、自分とは逆方向に下っていく人が多い。
そりゃそうだ、これから雨が降ってくるんだから。わざわざ公園に残ろうなんて物好きは少ないだろう。
だけど、そんなもの好きがここにいる。
そう、俺だ。
慣れた足取りで公園の奥に向かって進んでいく。
遊歩道と書かれている看板を左手に曲がって少し進むと、視界が開け目的のものが見えてきた。

成長期の高校生の背丈より2倍も3倍も大きくそびえる柱たち。
透明なもの、金色のもの、銀色のもの、茶色のものなど、様々な色があり、それぞれ多少背丈が違うが、似たような細い棒状をしていている。
ちなみに、透明なものはガラス、銀色のものは鉄など色によって材料が違う。
各柱から、無数に伸びた枝のような棒の先には小さな受け皿が付いていて、例えるのであれば、人口の木というのがいいかもしれない。
それが、間隔をあけて林のように並んでいる。
規則性はなく、透明な柱が2本並んでいることもあれば、金と銀がまとまって並んでいるところもある。
『音の森』
そう名付けられた巨大なオブジェの集まりは、俺以外の誰にも見られることなくひっそりと佇んでいた。
「よう、また来たよ」
慣れ親しんだように声をかけるが、当然返事はない。
聞こえるのは、木々の間を通り抜ける風の音だけだ。
でも、そんないつも通りの音に俺はちょっとだけ安心する。
空を見上げると、さっき灰色だった空は黒一色に染まっている。髪の丸まり具合も、後数分で雨が降り始めることを告げていた。
「さあ、頼むぞ。今日こそ聞かせてくれよな」
折り畳み傘を鞄から取り出してさすと、ゆっくりとその瞬間を待った。
小さな雨の存在を鼻の先に感じると、すぐに地面にもたくさん雨粒が挨拶をしはじめる。
地面を叩く雨の音はその速度を上げて、いつの間にか辺り一面に鳴り響いていた。
耳の傍を通り抜けては地面に消えていく音を楽しみながら、さらに耳を澄ます……が、俺が望んだことは起こらなかった。

『音の森』
それは、雨をその全身に受けて音を奏でる巨大なオブジェクトだった。
だった……というのは、既に過去の話だからだ。
金属やガラス、木のオブジェたちが雨に打たれて奏でる音たち。
その音たちは1つの音楽になり、絶え間なく演奏される。
雨の降る強さや、風の向き、長さによって音楽は変わり、決して同じ音楽を奏でることはない。
そう、雨が降るたびにその時だけにしか聞けない音楽が聞けるのだ。
そんなことから、音の森は設置されてから大人気で、雨の日は絶えることなく人々に囲まれていた。
俺が音の森と初めて出会った小学校1年生の頃は、この音の森を訪れる人も少なかったが、
TVの取材に幾度も取り上げられ、その存在はいつの間にかこの町の人だけではないものになっていた。
そして、音の森の存在が大きくなりすぎた時、それは起こった。

3年前、音の森が突然鳴らなくなったのだ。

原因は今でもわかっていない。
ただ、当時大きな騒ぎになっていてテレビ報道されていたことがある。
「この音の森を設計し、作ったデザイナーが既に死んでいて修理することができない」ということだった。
複雑な構造をしているということもあり、もし直したとしても不協和音が入ってしまう危険性があるらしい。
市のお偉いさんが「なんとか直すことができないか」と、当時他にも実力のあったデザイナーや有名建築企業に修理の協力を依頼したっていう話もあったけど、
結局この音の森は直ることはなかった。
でも、もしかしたら何かの拍子に動きだすかもしれない。
そう信じる人たちが、雨の日に音の森の前で待ち続けたけど、3年という時間が人の記憶から音の森の存在を消し去っていた。
『待っていても、それに応えてくれるものはない』
このことに気付いた人たちは次々と音の森から離れ、今では俺だけになってしまった。

「やっぱり、今日も駄目か」
聞こえるのは自分の傘にぶつかる雨の音だけ。
しかたなく、いつものように俺が諦めて帰ろうとしたその時だった。
「ねえ、帰っちゃうの?」
聞きなれない高い声に、思わず後ろを振り返ってしまった。
そこには、青い傘をさしてこちらを見ている少女の姿があった。
どれぐらいの水を閉じ込めればあのツヤが出るのだろうと思うぐらい、長く真っ直ぐな黒い髪の毛。
傘を持つ白く細い腕は、果たしていつまで傘を支えられるのかと思うほど華奢に見えて、
そんな腕は、身に着けている白のワンピースとの境界が一瞬分からなくなってしまうぐらいに白く美しかった。
そして、俺の目に映るその瞳は一点の曇りも無いサファイアのように青く澄んだ色をしていた。
吸い込まれるようなその瞳と雰囲気に、俺はただ見惚れることしかできなかった。
「ねえ、帰っちゃうの?」
少女が同じ質問を繰り返すことで、俺は我に返った。
誰だこの子、この付近じゃ見かけないし。いつの間に後ろにいたんだ?
何よりも、あの瞳の色……日本人じゃなくてハーフか何かか?
頭の中がハテナマークで埋まっていく。
「あ、ああ。音が鳴らないんじゃ帰ろうかと思ってたんだ」
そんな混乱した頭の中、返せた言葉はごく普通のものだった。
少女は俺をチラリと見て、その脇を通り抜け音の森の前に立った。
「君、よくここに来てるよね。そんなにこの音の森のことが好きなの?」
おーい、なんか会話が噛み合ってないぞ。
というか、前も後ろから俺を見ていたことがあるのか?
音の森と俺を交互に見ながら、傘をくるっくるっと回す少女。
そこから見える笑顔が、あまりにも子供っぽく見える。どう見ても俺と同い年か年上って感じなのに……。
動作と言動のギャップのせいなんだろうか。
「そりゃ、好きだよ。この森が聞かせてくれる音楽を聞くと元気が出るんだ」
そうさ、どんなに落ち込んでいる時や、悲しい時もこの音の森の音楽を聞くと元気になれた。
決して同じ音楽でなく、その時によって強く、優しく聞こえる音に俺は癒されていたんだ。
だから、音が聞こえなくなってしまった時には悲しくて……信じられなくて……。
最初は、また落ち込んでいる時に聞きたいなぐらいで通っていたけど、今ではちょっと事情が変わってきている。
――次の春になれば、俺はきっとこの場所にいない。
遠くの大学を目指していることもあって、もし合格してしまえば本当に聞けなくなってしまうかもしれない。
だから、大好きだった音をそうなってしまう前にもう一度聞きたいという気持ちが強い。
人がそんなことを思いながら返事をすると
「おおおおっ! 本当? 本当!? だよね、だよね。そうだよね! いいよね、音の森。うんうん、同じように思ってくれている人がいて嬉しいよ!」
早足で俺との間を詰めて、目を爛々とさせている少女。
最初に感じた、神秘的なイメージは……おーい、どこへ行った。
「それはそうと、君は? 俺は榎本歩(あゆむ)って言うんだ。そこの桃の木高校に通っているん――」
「私は、雫(しずく)。雫だよ!」
俺が最後まで言い終わらないうちに、少女は自分の名前を雫と名乗った。
「雫か。じゃあ雫、君も音の森を聞きに来たのかい?」
「うん、そうだよ。今日は特別な日だからね」
さっきよりも傘を勢いよく回す雫。
しかし、特別な日……? 誕生日か何かなんだろうか。
「そっか、でも残念だな。今日もこの様子じゃ、音の森は鳴らないみたいだ」
俺の発言に雫はキョトンとした表情になってしまう。
ん、俺何か変なこと言ったか?
「ええええええええええええっ!?」
突然、大声を出して『何、この人ありえないこと言ってるの?』と言いたいよう顔で俺を見ている。
「ん、いや、ほら鳴ってないぞ?」
「歩、それ本気で言ってるの? 信じられない。本当に?」
困った、完全に雫に会話のペースも何もかも持って行かれた。
ここで俺が返す言葉と言ったら
「あ……はい」
これしかできなかった。
「はあ、いつも来てる歩だから聞こえてると思ったのに。本当に聞こえないの? この音たちが」
音の森を指さして雫はため息をつく。
なんだこれ、俺完全に悪いことしてる人みたいな感じになってきたぞ。
「歩、もう一度耳を澄ませて『聴いて』みて。きっと、聞こえると思うから」
雫が胸の前でこぶしを作る。あれほど硬く握るってことは、よほど自信があるのだろう。
「わかった、聴いてみる」
俺は、耳に意識を集中して雨の音をシャットアウトしていく。
音の森から発せられているであろう音を感じ取ろうとしてみるが、やはり聞こえない。
困った、雫には聴こえるのに、俺には聴こえないのか。
「雫、ごめん。やっぱり聴こえないよ」
俺の言葉に雫の表情が曇る。青い瞳に寂しいという気持ちが宿っているように見えた。
「やっぱり、もう歩にさえ聴こえないところまで来ているんだね」
雫は目を閉じて何かを考えているようだった。
俺はバツの悪さから、雫の返事を待つことしかできなかった。
しかし、この子……雫は一体何者なんだ。突然現れて、俺よりこの音の森のことを知っているようだし。
俺は思い出せる限りの記憶を辿るが、該当する女の子を見つけることができなかった。
そんなことを考えていると、雫が目をゆっくりと開いてこちらを見る。
「ねえ、歩。音の森の音、もう一度聴きたい?」
爛々とした表情でもなく、寂しげな表情でもなく、何かの意思を宿した瞳で俺を覗き込む。
そんなの、答えは決まっている。
「聴きたい。俺は、音の森の奏でる音楽をもう一度聴きたい」
3年間、聞くことのできなかった音の森への想いを込めるようにして俺は確かにそう答えた。
雫はニッコリと笑う。
「よーし、じゃあ歩に聴かせてあげよう。水と風と大地が奏でる音楽を!」
雫は手にしている傘を放り投げ、音の森の前に再び立った。
「おい、風邪引くぞ!」
いきなり理解しがたい行動に出た雫に思わず声をかける。
まだ止みそうな気配の無い雨に打たれ続ければ、下手すれば風邪どころじゃすまないかもしれない。
雫の白い肌を見ていると余計にそう思ってしまう。
そんな俺の心配をよそに、雫はびしょ濡れになりながらも笑顔を見せている。
「大丈夫。それより、行くよ! よく聴いててね」
雫が両手を上に構える。
まるで、これからオーケストラでも始めるかのような指揮者のようだ。
「いくよ、音の森!」
雫が手を振り下ろし、そしてまた手を掲げ、リズムをとりながら動かしていく。
その時だった、雨音しか聴こえなかった俺の耳に、懐かしい音が聞こえてきた。
水と金属がぶつかる時に発せられる高い音
水とガラスがぶつかって、控えめになる優しい音
水と木がぶつかることで聞こえる低くしっかりとした音
雫の手の動きにあわせて、次第に音が大きなものになっていく。
「そんな、まさか……音の森が! どうして!? すごいよ雫!!」
疑問よりも、感動が次から次へと押し寄せてくる。
3年間、どんなに待っても聞くことのできなかった音の洪水に、自分の涙腺も決壊していた。
なんだよ、やっぱりすごい……すごいぞ音の森!
俺がずっと聴きたかったのは、この音だよ。
泣いている俺を見て、雫が手招きしている。
「ねえ、そんな傘さしていたらちゃんと聞こえないよー! そんなの投げちゃって、歩も来なよ。音の森が呼んでる。『一緒に歌おう』だって!」
その純粋に向けられた笑顔に背筋がゾクッと来た。
なんだ、この高鳴る気持ちは。
音の森が……俺を呼んでいる?
いつもならおかしく思うようなことも、雫の笑顔の前に消え去った。
「ちくしょう、俺は受験生なんだからな!? 風邪引いたら責任取れよ!」
笑顔で、思い切り傘を後ろへ投げ飛ばし、びしょ濡れになりながら雫の元へ駆け寄る。
「こ、こうすればいいのか?」
「そうそう、思うがままにやればいいんだよ」
手を思いのままに振り回すと、手の動く方向から音が次々と飛び込んでくる
本当に、これが現実なんだろうか?
自分と音の森が……いや、自分が自然と一体になっているようなそんな感覚と充実感が心を満たしている。
隣では雫が嬉しそうにリズムを合わせて手を振っている。
「ねえ、歩!」
雨と音の森の音に負けないように、雫が大声で呼びかける。
「ほら、聴こえたでしょう? 森の音!」
「ああ、聴こえたよ! 本当に聴こえたよ!」
「あのね、これは歩が聴きたいって思ってくれたからできたことなんだよ 」
「?」
雫の言葉の真意がわからず、俺は首をかしげる。
「前に、私に話してくれたでしょう? この町を出て、遠くの大学に行こうかどうかって」
……ん、どうして、そのことを知っているんだ?
俺はそのこと、父さんや母さん、先生だけじゃなく友達の誰にも言ってないはずなんだが。
ましてや、俺と雫は今日初めて会ったばかり。
だとしたら何だ、俺がそんな悩み事を呟く相手なんて音の森ぐらいにしかないはずだ……。
――まさか。
そのまさかのありえない可能性を考えながら、俺は雫に向き直った。
「雫、君は――」
「迷った時は、とにもかくにも行動してみること。できるかできないかじゃなくて、やってみることが大事なんだよ?
 実際、私の音聴こえたでしょう?」
「ああ、確かに聴こえた」
雫――、音の森が優しく俺に微笑む。
「迷って迷って、自分の出した結論が出たらそれに突き進む。その先には……」
そう言うと、雫はより大きく腕を振り上げた。
「行くよ、歩。フィナーレだよ!」
雫が腕を振り下ろすと、数々の音が響いた後に静寂が訪れた。
演奏と共に、雨が上がっていた。
「ほら、歩。見て」
雫が指さす先。そこには、7色に輝く光の橋。虹が架かっていた。
霧状になった水が太陽の光を反射し、俺と雫の周りを虹が包み込む。
「頑張ったご褒美」
雫が一番の笑顔で微笑む。
「ありがとう、雫。俺、頑張ってみるよ」
「うん、頑張れ少年!」
雫のが両手で俺の手をギュッと握ってくる。
「もう――、大丈夫だよね?」
気が付けば、雫の姿が景色に溶け込むように消え始めていた。
真っ直ぐに俺を見てくれている雫。
「はい!」
短いけど、その二文字に今想っている全てを込めて俺は返事をした。
大丈夫、君から教えてもらったこと絶対に忘れない。
雫は微笑みながら、ゆっくり……ゆっくりと虹の中に消えていった。



その後――、俺が雫に再会することはなかった。
何故なら、俺と雫が出会った翌日に音の森の取り壊し工事が始まってしまったからだ。
雫の言っていた「今日は特別な日だから」というのは、このことを言っていたのだろう。
工事をしている人に聞いたところ、老朽化も進んでいたのでだいぶ前から取り壊しの予定が決まっていたそうだ。
そう考えると、雫は最後の力を使って、俺の前に姿を現してくれたのだろうか。
そもそも、物があんな形で現れるなんて信じるには難しいけど、
でも、確かに俺は雫に出会った。そして、大事なことを教えてもらった。
たとえ、あの出来事が全部夢や幻だったとしても
この胸にある思いは、きっとこれからも忘れることはない。
音の森は無くなってしまったけれど、
雨が降るたび、雨上がりの空にかかる虹を見るたびに思い出すだろう。
あの少女のことを。





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